経緯はこちら。自らトゥギャるのはどうなんだとも思うけどw。

…ということで納期間際で大変なことになっている梅ラボさんにプリンターを届けてきました。

持って行ったプリンタで試し刷りをしつつ1時間ほどアトリエで話をするという珍しい経験をすることになったわけですが、まあ偶然美術作品を買う側の人間がプリンタを届けたのだし、せっかくなので作品や作家さんについて書き残しておきます。

取材で行ったわけではないので、梅沢さんの具体的な発言は披露できませんが、まあ私はこう思ったよ、という程度に。

そもそも私は梅沢さんの作品をどう見ていたのか。

ワタクシ、偶然にも土曜夕方にCASHIで梅沢さんの個展を見ています。見た直後のtweet。誤字もそのままw。

「cashiでやってる梅沢和木点。少なくとも2点はかなりいい。この手のが好きじゃない俺が思うってことはかなり良いのかもしれませぬ…。にしても完売かよ。」

ここで「この手の」と書いたのはいわゆる「萌え絵」的な静止画のこと。
(漫画の様式について詳しくないので、正しくは「萌え絵」ではないのかもしれません。指摘してくださるとありがたい)
個人的には、あの手の絵はストーリーがあるからこそ活きるのであって、紙の上に絵だけ留めるのは醜悪だと思っている。
…のですが、好みではない素材だとはいえ梅沢さんの作品はよかった。
珍しく具体的な話も雰囲気もないtweetなのは、どこが良かったのか自分で分からなかったから。

さて、作家さん本人とゆるーく話をしてみてわかったこと。

いいと作品だと思った理由は簡単だった。
いい作品を作るのに必要な視点を梅沢さんは持っているから。

話をしている中で、梅沢さんにとっての「萌え絵(あってるのかな…)」という話になった。
そこで梅沢さんが言った視点の事こそ彼の芯の部分だと思うし、いい作品を作れる前提として当たり前すぎる事だから。
あまり話をしている事を聞いた事がないのでなんですが、あの話はあちこちでするべきだと思うんだ…。
言葉を選んでたからそんなに話慣れている事ではなさそうだと思った。

あの一言が聞けただけで、深夜に持って行ったかいがあった。
話の対象は「特定ジャンルの絵」についてだったけど、彼の回答は狭いフィールドの中の話ではなかった。
視点を明確に持ち続ける限り彼の作品には芯が一本通るだろうし、もしも彼が対象としたものが漫画やアニメではなかったとしても、違うものに素材の対象が変わったとしても、作品の質を維持できると思う。
既にそうなりつつあるのだろうけど、価値の明確化や立ち位置の変化についていける作家さんだとも思うのです。

えらく持ち上げてるように見えるかもしれないけれど、彼が言った一言を言える作家はあまりいない。
モチーフとして選んだものについて「好き」「嫌い」「面白いから」という理由を挙げる作家は多いけれど、そこで止まる作家は結構多い。

私は、個人的に親しい同世代や若手の作家に対して、「なぜ好きなのか、美しいと思うのかを自身のコンテクストを絡めて自分の言葉で表現しないと伝わらないよ?」という事を言うことがあります。
彼のコンテクストについては聞きそびれましたが、彼が言ったことは私が求める言語の構築に必須なもの。
そして、彼は何でもないことのようにさらっと言った。(ほんとになんでもない事なんだけどね)
そこに作家としての強度の基盤を見たように思うのです。

しかし、俺はやっぱりあの手の絵は好きじゃないんじゃよー!!
モチーフ変えてくれないかなー。無理だよなー。趣味くらい聞いときゃよかった。

そうそう。結果的に未公開のデカい作品になるものを見ることになりました。
作家が制作に使っているPC&ディスプレイで。
話をしている中で、最終的に作品を表示するデバイスの話になりました。
あえて当たり前の事を言うけど、私は彼のディスプレイで見たものが一番綺麗だと思う。
評価されるのは大きい作品だとも思うけど、彼がディスプレイに全体を表示したままのサイズが一番美しいと思った。
試し刷りの出力でもクローズアップで見ているけど、正直なところ美しいとは感じられなかった。
(試し刷りは1mに満たない長さだし、かなり大きな作品になるもののの一部なので分からなくても仕方ない、ということで許してください…)

あのままの色で、あのサイズで出力できるなら俺は買う。
出力した上にペイントすることで作品の質や強度が変わるだろうけど、ディスプレイの目の前で見たものでも充分。
素材となっているものが趣味にあわなくても、サイズは小さくても、圧倒的な存在感があった。

もし目の前で作家のアトリエで出力し終わった作品を壁に貼って見ることがあったとしても、やっぱり私には彼が作っている環境で見るのが一番美しいと思うだろう。
これはPCとディスプレイで作品を作っている作家の最後の悩みなのかもしれない。
自分でもディスプレイの質とサイズ・出力・カラーキャリブレーションで、自分の作る写真や図面がこうも内容が変わるのかとびっくりした経験があるけど、梅沢さんのは作品の作り方故になおさら大きくなると思う。

以下自分メモ。
以前、カオスラウンジに対してはこんな事をつぶやいた。

「某ラウンジな人たちがやっている事は、俺には「葬式」にしか見えないのだけれど、同世代(ほぼ。たぶん)の俺にとって00年代は葬る対象ではない。終わった、変わったならわかるけれど。そもそもここが根本的に相容れないのかもしれん…。」
「値付けをすることで生じる価値の明確化と立ち位置の変化に作家はついていけるのでしょうか… RT @takashipom: カオスラウンジの諸君の作品を販売する計画:発動 @Hidari_Zingaro」
「破滅ラウンジ、わたしゃサブカル感を全く感じなかった…。なんか使いつくされた古着の山を見てる気分だったよー。だからといって理系なオタ臭も感じなかったのだけど。」

葬式に見えたのは、具体的に「葬る」ではなく、葬る事に伴う心理という点で見ればよかった。
サブカル感を感じなかったのは正しかったと思う。
古着の山…という表現は微妙だった。あっているとしたら一度フィルターがかかっているという点だけ。

>梅沢さん
頑張って一日PCとプリンターの奴隷になってくださいw
作品が売れたら、絶対にいいPCとディスプレイとプリンタを買うべきだ!!

ホントにこの手の話をしたい人、する必要がある人を除いて、twitter上で美術に関するカネや市場云々の話に参入するのは今後金輪際やめておくことにしますが、disrespectされるのを覚悟で最後に一度だけ思いっきりカネや市場の話。

私は市場が拡がることを望まない。
少し前の現代アートブームの時に市場が拡大して何が起こったかみんな忘れたのだろうか。
自分にとっては、既に玉石混淆なところに石が増えて、玉は私の財布では買えなくなるだけのことだった。
それがいい事だ、と仰る方はぜひ持論をお教え頂きたい。(単に私が見えていないものが多いか不勉強というだけかもしれないので…)

市場の拡大云々言っている人は、自分の考えていることが作品を株券化することなのではないかと一度考えた方がいいのではないでしょうか。
そして、上場することで企業はどのように変質しなければならないのか、公開株式市場における実質的な値付けは誰が行っていて同レベルのアート市場では誰が行っているのかについても。
その結果美術に関わる人たちの所得が底上げされると思っているとしたら大間違いだし、美しいものが増えるわけではないのですよ。美術は一般からなおさら遠ざかっていくだけなのではないかと思うのです。

私は、素人なりに自分の目を信じているし疑ってもいる。ありがたいことに周囲には確かな目を持っているギャラリスト、作家さんもいる。
玉は磨かないと光らないのは確かで、そのための投資は必要なのだから、自分+αの目を信じて何らかの形で金銭以外を目的に投資できる人が増えてほしいとは思う。
そういった事ができるかもしれない人に対してのプレゼンテーションは確かに不足していると思うので、私は素人なりに自分のできることをやるだけです。

別件のジャンル分け云々について。

一昨日からジャンル分け云々について話をしたりdisられたり無視されたりメールでストーキングされたりwしておりますが、具体的な持論の提示や活動提示がないのが残念。

綺麗事ではなく、作家も食べていけないと作品作れない、他者の評価がないと自分の作品をどうしていったらいいか分からないと本音を言える作家はいないのか。
ジャンル内での主導権を市場の手にしたがっている人は理由も方法論も語れないのか。
知名度を借りることしか方法を見出せないのか。
そもそもマクロで語れる人も自分の視点でものが言える人もいないのか。

もしある集団(剛結合な組織〜緩いコミュニティクラスタまで)に問題があるとしたら、そこで行っていることや作っているものではなく、自分自身の明確な視点と知見を持っていない人がリーダーシップを取っているという事に尽きると思う。企業でも趣味でも同じだけど。

さて本題。twitterで書いたことでもあるのですが、「あなたの作っている作品は何ですか」という事に尽きると思うのです。
美術作品ですか?陶芸作品ですか?器ですか?
美術作品だと仰るなら、「あなたは偶然または恣意的に陶芸という手法を使って器の形をした作品を作ったのですね」というだけではないのでしょうか。
形態、素材、手法、そんなものは方法論でしかない。あなたが美しいと思ったものを形にしただけであって、なぜそれが美しいかをプレゼンテーションすればいい。(できればご自身のコンテクストに基づいて)
評価する側は、自分の審美眼やコンテクストに基づいてその作品を見るなり買うなりするのであって、陶芸として見る人は陶芸として見るでしょうし、美術品として見る人は美術品として見るのですから。

もしも特定の誰か(個人/組織を問わず)にウケたかったら、対象が求めるコンテクストを構築して作品を作ればいいのです。
(このあたりは某有名作家さんの持論をそのまま引用したいw)

ジャンル分けなんてものは本来、自身の目を信じられない人に向けてわかりやすくするため以外の効果はない。
自分自身をそこで縛る必要はないし、そんな狭い領域で自分の求めるものを表現できる人は美術なんてやらない方がいい。

対極として、極く狭い領域における極点を職人的に目指す、という方向はアリですけどね。
美術作品としての広範な扱いでもジャンルの中ででも評価はされないと思いますけど、個人的には凄く好きです。

最後に、匿名のメールで知名度のある作家さんの言葉を引用した総論的な反論を頂いておりますが、記名でご自身の持論をお伺いさせて頂きたい。

追記。
アートを広める云々についてずっと違和感をもっていました。多少関わったり話をしたりもしてきましたが、違和感は消えることがなかったし増幅されてきた。

自分が楽しいと思うことを周囲に啓蒙したい人と、ビジネスとして成立させたい人の手段が混在しているからだというのも違和感の理由の一つではあるのですが、違和感の根本は、私にとっては「アートを広める」ということそのものが、誰かが美しいと思うもの可能性があるものを美術作品としてジャンル分けする事に見えるから。
(↑までを読んだ人のコメントでふと気がつきました。ありがとうございます。)

私は、美術館は美しいもののアーカイブであってほしいし、ギャラリーはギャラリストが美しいと思うものを展示し販売する場所であってほしいと思います。
そして、それは美術作品という呼ばれ方でもアートでなくてもいいとも思うのです。

広めるものでも鑑賞するものでも買うものでもなく、目の前にただあってただ美しい、それだけでいいんじゃないかと。
私は目の前に「いつも」あってほしいから買うだけ。
…まるでもの派みたいな言いようですけれど。

ライブCDを買うように、綺麗な器を使いたいように、PCの壁紙を変えるように、好きなものを手元に置いておく。
そこに多少の知識と自身のコンテクストとのマッチングがあれば、もう少し楽しくなる。
それだけなんじゃないですかね。

…まあ、そりゃあんたが作品持ってるから言えるんだろ、昔から見てるから言えるんだろ、あんたのコンテクストの何割かに美術と音楽があるからじゃないかと言われたら何の反論もできないんですけど…。

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